幼少の頃、エレクトーンが自宅にあったが習わせてもらえず、近所の音楽教室前で立ち聴きを始める。曲を記憶して帰宅し、自宅のエレクトーンの前で同じ音を探す日々であった。
11歳の時に、百貨店特設会場で飛び入りコンクールにたまたま居合わせ、出演する。銀賞を獲得。金賞の素敵なお兄さんに憧れて本格的にエレクトーンを習い始める。
少女時代はレコードや楽譜が買えないため、ラジオを聴いて耳コピを繰り返す。
10代後半に大阪府から徳島県に移住。そのまま地元楽器店に就職し、MIDI打ち込み・デモンストレーター・アレンジャー・講師として活動する。
20歳で電子オルガンコンクール全日本第1位となる。この時の受賞曲もウォークマンで耳コピしながら練習したものだったが、曲名は知らずじまいだった。
同年日本代表として世界フェスティバルに出演。そこでは前述の曲名を明らかにする必要があり、切羽詰まった勢いで当時流行の音楽雑誌「JAZZ LIFE」に曲名を探して欲しいと相談電話をかける。時の雑誌ライター陣が立ち上がり、2日で曲名・作曲者を知らせてくれる。無事そのCDを購入し改めて聴きかえしてみたが、ウォークマンでは半音転調しているはずの部分がCDでは転調しておらず困惑する。後に「ウォークマンの電池を入れ替えた時に再生スピードが上がり、キーが上がってそれを転調したように思い違いをして耳コピしていた」ことが判明。旋律・ベース・ドラムまで丹念にコピーした思い入れの深い曲であったため、そのままのキーで出演した。
25歳で独立し、弊社「JAZZ PEACE」の前身「アンダンテ」事業所を立ち上げ、これまでの仕事を続けると共に演奏活動にも力を入れる。
後にピアノ演奏を始めるが・・・徐々にピアノ演奏に戸惑いを感じ始める。
エレクトーンで様々な音をMIXして使っていたためか、突如ひとつの音種のみを扱うことにつまらなさを感じるようになっていた。
しかし徐々に、電子には無いピアノの生音の美しさに魅せられていく。それはまるで、多くの絵の具を使わずに描く水墨画のようなもので、シンプルな表現の仕方にとてつもない魅力を感じていた。
和音大好き女としては自然にJAZZ一色の方向へ進み、事業所を「JAZZ PEACE音楽企画」に改名する。
その後、初渡米。独特のグルーヴ感に感銘を受ける。そして遂に憧れのベーシストとのレコーディングを叶える。本場名プレイヤーのテクニックが突き刺さる激的な経験を得る。バックメンバー(Baハーヴィ・S、Drビクター・ジョーンズ)のお陰で満を持しての1stアルバム「Quiet Bouncin’」をリリース。その後ジャズピアノを中心にライブハウスで日々活動する。
その後は演奏ジャンルも多岐に渡り始め、かつての電子楽器も積極的に扱うようになり、他ジャンルとのコラボも行う。 2016年、ホームグラウンドであったGoto’s Barのオーナーが逝去。翌2017年にオーナーの跡を継いで経営者となる。音楽以外は全くの素人であったため、お酒の名称から覚える。音楽仲間がスタッフとして支えてくれたおかげもあり経営は軌道に乗るが、コロナ禍となって演奏激減、経営は壊滅状態となる。その一方で編曲・楽譜作成の依頼は激増。近年は2ndアルバム「Sebe’s Dream(セベズ・ドリーム)をリリース」。現在、演奏のライブ配信の需要も高く、各地から反響を得ている。